長野県・上高地。観光客で賑わうこの山岳景勝地の入り口に、釜トンネルは静かに口を開いています。
今は明るく整備された道ですが、かつてこの場所を通るには神経を研ぎ澄まし、身体のすべてで慎重にバランスを取る必要がありました。頭上には低く垂れ下がる岩、足元はぬめりを帯びた岩と泥、耳を打つのは落石の小さな衝撃音と、車のエンジンの唸り声だけ――。
この記事では、釜トンネルが歩んできた常識を覆す5つの歴史的真実を、まるでその場にいるかのような視点で紹介します。
1926年、ここにはまだ、人ひとりがやっと通れる手掘りのトンネルしか存在しませんでした。1915年の焼岳大噴火で生まれた大正池の水を利用した霞沢発電所建設のため、資材を運ぶ狭い軌道として掘られたのです。
幅2m、高さ2mの暗い空間。トロッコの車輪が砂利と岩に引っかかる音、頭上から滴る水滴の冷たさ。手で壁に触れると、湿った岩肌がぬるりと指先を滑る。通るたびに、自然の力と人間の努力の痕跡を身体で感じる――それが初代釜トンネルでした。
このトンネルは観光のためではなく、自然と人間の利害のせめぎ合いによって生まれた、歴史的な産物でした。狭さと暗さは、上高地の自然を守る“意図せざる保護”の始まりでもありました。
1928年頃、自動車道として転用されても、釜トンネルは常識外の道のままでした。
運転席に座るあなたは、ハンドルを握る手のひらに汗をかき、アクセルとブレーキを交互に踏みながら、呼吸を整えるしかありません。対向車と鉢合わせすれば、ぶつかる寸前でバックし、岩肌に擦れながらも先へ進む。頭上から水滴が落ち、フロントガラスにぽつりと当たる。ライトの光が壁の湿った岩に反射し、闇が一瞬揺らぐ――心臓が跳ねる感覚です。
「トンネルを改修しても、駐車場や施設がすぐにいっぱいになるだけだ」 ――1987年、関係者の言葉
通行の困難さは、結果的に上高地を守りました。狭く、急坂で、曲がりくねった暗闇の道――これが車両の流入を物理的に制限したのです。
長野県はこの役割を理解し、あえて不便を残す政策を取っていました。トンネルの湿った壁に手を触れると、冷たくぬるりとした岩肌から“守られた自然の歴史”が伝わってくるかのようです。
戦後、崩落で道が寸断された際、技術者たちは驚くべき方法を採りました――バスごと吊るして空輸。崖の上に張られたロープウェイに吊るされたバスが、風に揺れながらゆっくりと移動する。車内の振動、揺れ、風の音、下を見下ろすと吸い込まれそうな谷――。
さらに松本電鉄は、釜トンネル専用に六角形のバスを開発。車体が岩壁にこすれる音、窓越しに見える暗闇、乗客の緊張した呼吸。それでも通過後はボディに傷がつき、まるで戦いをくぐり抜けた証のように残ったのです。
暗いトンネルを抜ける瞬間、視界がパッと開けます。冷たい湿気と泥の匂い、エンジンの熱、手に残る汗――すべてが消え、目の前に輝く大自然が広がる。俗世から神聖な山岳エリアへの“通過儀礼”。この劇的な変化が、訪れる人々の心に深く刻まれました。
2005年に新しいトンネルが開通し、所要時間は2分に短縮。しかし、闇と湿気、岩肌、緊張と畏怖――“儀式体験”は失われてしまったのです。
釜トンネルの歴史は、工事用軌道から始まり、法律を超え、危険ゆえに自然を守り続けた物語です。
安全で快適な道が当たり前になる現代、私たちは困難の先にあった自然への畏敬や冒険心を失いつつあります。釜トンネルは、ただの道ではなく、自然との関わり方を考えさせる体験型の遺産だったのです。
闇、岩肌、滴る水――その五感が呼び覚ますのは、単なる過去ではなく、未来への問いかけ。「道が整備されても、本当に失いたくないものは何か」――釜トンネルは静かに、しかし力強く教えてくれます。