日本を代表する山岳景勝地、上高地。現在、その玄関口となっているのは、安全で広々とした快適な釜トンネルです。しかし、この現代的なトンネルが、かつては法律の基準を無視した「試練の門」であり、数々の伝説を持つ命がけの道だったことをご存知でしょうか?
かつての釜トンネルは、単なる交通路ではありませんでした。それは、訪れる者を選ぶかのような、暗く、狭く、険しい道。この記事では、土木技術の足跡を辿りながら、その道が人々の心に刻んだ意味を読み解く、文化地理学の視点から、常識を覆す5つの歴史の真実を解き明かしていきます。
今日、私たちが観光のために通る釜トンネルですが、その起源は驚くべきことに、観光客のためではありませんでした。
初代の釜トンネルは、1915年の焼岳大噴火によって誕生した大正池、その水を活用した水力発電所(霞沢発電所)の建設に伴い、工事用資材を運ぶためのトロッコ軌道として1927年頃に掘られたものです。しかし、景勝地での開発には地元から強い反対運動がありました。そこで電力会社である梓川電力は、工事完了後にこの軌道を長野県へ譲渡し、上高地へのアクセス道路として開放するという案を提示します。このトンネルは、産業開発と自然保護のせめぎ合いが生んだ「交渉の産物」だったのです。
当初はすべてが手掘りで、幅も高さもわずか2m程度。この事実は、上高地への道が、まず産業と自然の駆け引きの中から生まれたという、この土地と人間の関わりの原点を示唆しています。
1928年頃に自動車道へと転用されてから、2005年に現在の新トンネルに役目を譲るまで、実に77年もの間、旧釜トンネルは当時の道路構造令が定める基準を大幅に逸脱した、いわば「法律違反」の状態にありました。現在の道路構造令が坂道の勾配を最大でも12%と定めているのに対し、旧釜トンネルは最大16.5%にも達したとされ、その逸脱ぶりは常軌を逸していました。
その構造は、現代の常識では考えられないほど過酷なものです。
S字カーブやクランク状の急カーブが連続し、見通しは最悪。多くの区間が掘削したままの「素掘り」で、壁からは常に地下水が染み出し、通り過ぎる車体を削り取るほど鋭い岩が突き出していました。舗装されていない路面は、砂利と地下水が混じったぬかるみとなり、この急坂をさらに危険なものにしていました。
非力な車は登り坂で立ち往生。マニュアル車が坂道発進に失敗すれば、信号が変わって反対側から来た対向車とトンネル内で鉢合わせします。排気ガスが充満し、エンジン音が反響する暗闇の中、どちらか一方の車列が全員でバックしてトンネルを脱出するしかないという「地獄絵図」が、日常的に繰り広げられていたのです。
そのあまりの過酷さから、トンネルの入口には「運転に自信のない方はご遠慮ください」という、前代未聞の警告看板が立てられていました。
信じがたいことに、このトンネルの劣悪な環境と通行の困難さが、意図せずして上高地への車両流入を物理的に制限し、結果としてその貴重な自然環境を長年にわたり守ってきました。この功績から、旧釜トンネルは「上高地の衛兵」とまで評されたのです。ここでインフラは、その欠陥を通じて、図らずも守護者となりました。近代的な道路としての「失敗」が、原生自然の保護者としての「成功」だったのです。
さらに驚くべきは、道路を管理する長野県自身がその役割を認識し、「あえて時代に見合わないトンネルを残し、心理的な入山制限をかける」という明確な意図を持っていたことです。1987年の新聞には、関係者のこんな本音が記されています。
近代トンネルへ作り直すことは可能…でも上高地は開発がものすごく厳しい国立公園の中にある。これ以上走りやすくしても上高地の駐車場や受け入れ施設がパンクし結局意味がない。
インフラの「不便さ」が、自然保護という「価値」を生み出す。この逆説を、為政者が意図的に採用していたという事実は、きわめて示唆に富んでいます。
この特異なトンネルは、日本の交通史においても類を見ない、奇想天外なエピソードを生み出しました。
一つは、戦後の混乱期、道路崩落で道が寸断された際に取られた驚愕の解決策「空中路線バス」です。なんと、技術者たちは崩落区間の上にロープウェイを架け、乗客を乗せたまま路線バスそのものを吊るして空輸したというのです。これはもはや土木工事ではなく、絶望的な状況が生んだ、ほとんど曲芸のような即興劇でした。
もう一つは、専用バスの開発です。路線を運行していた松本電鉄(現・アルピコ交通)は、この狭く、天井が丸く、湾曲したトンネルを通過するためだけに、車体を特別に設計した「六角形の形をしたバス」を特注しました。天井や側面の角を落とすことで、岩肌との接触を最小限に抑えようとしたのです。しかし、それでもなお、トンネルを通過するバスはすべてが傷だらけだったといいます。目的地に到達するためなら常識外れの方法も厭わない、人間の創意工夫と執念が感じられる逸話です。
旧釜トンネルは、単なる交通施設ではありませんでした。ここで文化地理学の視点を深めると、それが訪れる人々の心に深く刻まれる、文化的な意味を持つ象徴的な場所だったことがわかります。
この暗く、狭く、険しい道を通る体験は、なぜ人々を惹きつけたのか。それは、この通過が俗世から神聖な山岳エリアへと入るための「試練の門」であり、「儀式的通過」としての役割を担っていたからです。水滴がしたたる暗闇の中を、エンジンを唸らせて10分かけて這い上がる緊張の時間。それは、これから出会う大自然への畏敬の念を抱かせるための、重要なプロセスでした。困難な道のりは、巡礼者が聖地にたどり着く前に己を清める苦行にも似て、心構えをさせる装置として機能していたのです。
この場所は「上高地という聖地への門」であり、人々はその暗く狭い坂道を通過することで、“俗界から山岳の聖域へ入る”感覚を味わった。
2005年、新しく安全なトンネルが開通し、旅は一変しました。緊張に満ちた10分間の暗闇の格闘は、明るく広々とした道をわずか2分で駆け抜ける快適なドライブに取って代わられたのです。誰もが安全に上高地を訪れることができるようになった一方で、利便性と引き換えに、私たちはこの「通過体験としてのドラマ」を失ってしまったのかもしれません。
工事用のトロッコ軌道として生まれ、法律を無視した構造で77年間も使われ続け、その危険性ゆえに聖域を守る衛兵となり、数々の伝説を生んだ釜トンネル。その歴史は、「自然へのアクセス」と「自然の保護」という、常に緊張関係にあるテーマを私たちに突きつけます。
振り返れば、上高地の自然保護のあり方は、このトンネルと共に進化してきました。はじめはトンネルの険しさによる「意図せざる保護」、次に長野県がその不便さをあえて維持した「意図的な保護」、そして現在はマイカー規制という「システムによる保護」へと移行しました。この物語は、私たちが自然とどう向き合うかの思想が、コンクリートの道一本に色濃く反映されることを教えてくれます。
すべての道が安全で快適になったとき、私たちは冒険心や、困難の先にあった自然への畏敬の念といった、何か大切なものを失ってしまうのではないでしょうか?釜トンネルの物語は、単なる過去の記録ではなく、未来の道と自然との関わり方を考える上での、重要な問いを投げかけているのです。